TO DOCTOR
医師・医療関係者のみなさまへ
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府医ニュース
2025年1月1日 第3095号
中尾正俊先生が体調を崩されて入院されたとは聞いておりましたが、突然の訃報をお聞きし、愕然としました。残念過ぎてなりません。大阪府医師会副会長としてご一緒させていただいてから数年。中尾先生の切れ味の良いご意見を拝聴し、いつも腑に落ちておりましたし、当時の茂松茂人元会長や高井康之前会長をしっかり支えられ、府医のご意見番的副会長でいらっしゃいました。医師会運営、特に事務局運営で大混乱が起こり、それを正しい方向に導かれるべく会長選挙に出馬された時、新しいリーダーとしてその威風堂々とされたなんとも凛々しいお姿で、ほとんどの府医会員が彼を支持したのもそのはずです。
一方、その頃から、過労気味のご様子でもあり、会長になられた後の理事会でも、お疲れのご様子が目立っておりました。それでも、不肖私が第32回医学会総会の会頭に選ばれ、中尾先生にお時間をいただき、府医の協力を要請した時は「全面的に協力します」と大変力強いお言葉をいただいたのが中尾先生としっかりお話しさせていただいた最後になってしまいました。まさに青天の霹靂でした。
中尾先生はグランドデザインがしっかりされていて、その先見性と戦略に基づき、府医の運営をなされようとされていらっしゃいました。理論的なお考えと実行力は徹底されておられ、まったくぶれず、だからこそ府医のみならず、日本医師会からも頼りにされ、私心を捨て自らの身を挺してその期待に応えていらっしゃいました。であるが故に、皆から尊敬され敬愛されて、いよいよ中尾会長時代が始まったその矢先に現役で亡くなられた先生は、まさにサムライです。先生を失った府医の損失は計り知れません。
この上は、私自身、中尾先生のご遺志を継いで、副会長として府医の発展に、そして第32回医学会総会の成功に貢献できればと思います。中尾先生お疲れさまでした。安らかにお眠りください。
中尾正俊先生とは14年余り大阪府医師会役員としてご一緒させていただきました。私が理事になった時、中尾先生はすでに執行部の中心的な存在でした。私は主に広報、病院を担当としていましたので、病院に関する業務については担当副会長として色々とご指導を受けました。住吉市民病院跡地の民間病院誘致問題、地域医療構想、医療計画、病院協会との連携、医師の働き方改革、大阪市立総合医療センターの運営・地域連携会議など、いずれも医師会としてどのように関わっていくのか難しい問題ばかりでしたが、その節目で適切な助言をいただきました。
また、中尾先生は医師会の各種会議において、いわゆるマウントを取るタイプではありませんでした。どちらかと言えば大きな声ではなく、人の話を遮って発言することなく、決して相手を非難したり罵倒したりすることもなく、自己を顕示、主張する人ではありませんでした。しかし、発言のタイミング、内容は常に的を射ており、皆を納得させるものでした。中尾先生を知る人の多くは、そのような印象をもっていたのではないでしょうか?
会長就任後3カ月余り、中尾先生にはハネムーン期間などなかったようです。今から思えば、多忙からの疲れのみではなく、体調の異変に気付いておられたと思いますが、無理をして全速力で駆け抜けたのではないかと考えてしまいます。中尾先生が掲げられた4つの方針は、すでに軌道に乗りつつあります。
ご冥福を心からお祈りいたします。中尾先生、ありがとうございました。
昨年は、大阪府医師会にとっては、激動の年であり、悲しみの年でもありました。現職の会長である中尾正俊先生がお亡くなりになりました。私にとっても大きな悲しみであります。
中尾前会長との出会いは、20年前に先生が府医の訪問看護ステーション担当理事になられた頃であったと思います。当時私は地区医師会で担当をしており、府医での連絡会においていくつかの質問があり、10分ほど時間がかかるので、「あらかじめスライドを作って質問をしたい」という前例がないであろう提案をさせていただいたところ、ご了解をいただきました。質問の詳細は忘れましたが、おそらくきついボールをお投げしたであろうと思います。そして、きちんと受け止めていただいたことを覚えております。
その後、中尾先生が府医の地域医療全般を担当され、私は理事として直接ご指導いただくこととなり、それが15年間続いておりました。様々な研修会や会議等で司会をしている際、困った時には中尾先生に投げかけると、意を汲んでいただき、見事に対応いただける頼もしい存在でした。
新型コロナウイルス感染症に関しては、私が多くの時間を費やさざるを得ない状況をみて、他の業務での行政との対応に多くの時間を割いていただきました。感謝しかありません。
令和6年9月末からの状況は全く予想だにしませんでした。私達は先生のご遺志を継いで、府医役員一丸となって、なすべき事を着実に実行してまいります。天国から温かく見守っていただきますようにと念じながら、先生のご冥福をお祈りいたしたいと思います。
中尾正俊先生の容態が芳しくないと伺い、なんとか回復をと願っていた矢先に、先生の訃報が届きました。数日は何をするにも身が入らず、涙が止まりませんでした。中尾先生とは、平成16年に先生が大阪府医師会の理事に就任されてからですから、20年になります。彼が介護保険、高齢者対策の主担当となり、私は副担当ということで仕事ぶりを横で拝見しておりました。
多くの方がご存じだと思いますが、本当に熱心でまじめに担当分野に取り組まれる姿勢は、私自身も大いに参考にさせていただきました。一方で、人付き合いも良く、時には酒を酌み交わしながら、故植松治雄先生とともに日本の医療を語り合ったことが思い出されます。平成20・21年と一時期府医を離れたこともありましたが、その期間は多くのことをともに学ばせていただきました。
中尾先生は争いを好まない温和な性格でした。府医会長選挙に臨まれたのも相当な葛藤があったのではないかと思います。ただ、一旦決断されるとぶれないという芯の強さも兼ね備えておられました。立候補を口にした時から思い描いていたであろう府医の姿を実現すべく、短い在任期間の中で様々なことに取り組まれていました。東京におりますので、隣りでお力になることはできませんでしたが、非常に頼もしく見ておりました。
志半ばであった中尾先生の思いは、加納康至会長および執行部へと引き継がれてまいります。先生が描かれた府医が実現することを願っております。ご冥福を心よりお祈りいたします。
令和6年10月16日に急逝された中尾正俊先生の御霊に哀悼の誠を捧げます。
中尾先生は公益社団法人臨床心臓病学教育研究会(ジェックス)で心臓病学の実践教育に携わる同志でした。昭和62年に中尾医院を開設された後、平成3年にジェックスの理事に就任されてからは、多忙な日常診療の時間を割いて、聴診や身体診察の仕方、心電図研修等、ジェックスが主催する様々な研修会で精力的に活動されていました。当時どの研修会も100人を超す参加者を集め、時には一泊研修として各地に遠征、さらに5年には医療関係者を引率して12日間かけて米国の医学医療関連施設を視察するツアーを組織したこともありました。飛行機の長旅では、中尾先生とはいつも隣の席で将来の夢を語り合っていました。
16年に大阪府医師会の理事に就任されてからは、中尾先生の活躍の舞台はより広くなり、生き生きとされていました。22年に発行したジェックスのニュースレター、「2人に1人ががんにかかり、3人に1人ががんで亡くなる時代が来た」との巻頭言で、在宅医療を希望する患者の退院調整、緩和ケアチームの設置、かかりつけ医や在宅療養支援診療所、訪問看護ステーションやケアマネジャー、地域包括支援センターの活動を通じて、患者が安心して自宅で療養生活が送れ、治療再開時や急変時には速やかに入院できる体制の必要性を言及されています。
その後のご活躍はご存じの通りですが、医師会や病院協会の活動を通じて各種の委員会活動で中尾先生にお会いする度に、気心の知れた同志として頼りになる存在でした。本当に残念でなりません。ご冥福をお祈りいたします。
令和6年10月17日に開催された第3回大阪府医師会・大阪府病院協会・大阪府私立病院協会合同懇談会の開会のごあいさつの中で、加納康至・府医副会長(当時)から、中尾正俊先生が10月16日午後7時40分にご逝去されたとお伺いしました。
中尾先生とは、20年以上前のことですが、私が支払基金の審査委員を務めている時から審査委員同士で親しくお付き合いさせていただいておりました。その後、私が地区医師会の会長として、また私立病院協会の役員に就任した折も、中尾先生には府医の理事、副会長として助けていただきました。昨年5月末には、2人してそれぞれの組織の会長職を拝命し、これからというところでした。
この医師会・病院協会・私立病院協会の懇談会も毎年1回開催しているものでありましたが、昨年は中尾先生から「医師会、病院協会、私立病院協会との連携を密にして、より良い意見交換の上で意思統一を図りたい」とのご提案がありました。懇談会を3回に増やして意見交換の場を設け、さらなる充実を目指して開催していきたいとの趣旨で、私もすぐさま賛同させていただきました。志半ばでの急逝は誠に残念でなりませんが、3団体で取りまとめた要望書は、昨年11月12日に吉村洋文知事へ提出することができました。
中尾先生のご冥福を心からお祈り申し上げます。ありがとうございました。