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特集

中尾正俊・前大阪府医師会長の軌跡

府医ニュース

2025年1月1日 第3095号

中尾正俊(なかおまさとし)  前・大阪府医師会長
 愛知県出身。昭和27年12月5日生まれ。享年71歳。54年神戸大学医学部卒業(専門は循環器内科)。天理よろづ相談所病院、川崎医科大学循環器内科学講師などを経て、62年7月に東淀川区で中尾医院を開設。平成16年4月から26年6月まで府医理事(20年4月~22年3月は除く)、26年6月から令和6年6月まで府医副会長、同年6月から10月16日まで府医会長。

医師会運営で示した4つの柱

 大阪府医師会長として就任し、約4カ月後に伝わった訃報――。令和6年10月16日に中尾正俊先生が急逝された。71歳という若さでの他界は、会員をはじめ医療関係者に大きな悲しみと驚きを与えた。激しい選挙戦を乗り越えて府医会長に就いた矢先であった。長年にわたり地域医療の発展に尽力してきた中尾先生が目指した大阪の医療。生前語られた言葉から、その未来を描く。

突然の訃報
参加者らは蒼白に

 6年10月17日、会議の冒頭で加納康至会長代行(副会長)から、中尾先生が亡くなられたと告げられた。中尾先生が目玉政策の一つとして掲げた病院団体との連携。大阪府病院協会(大病協)・大阪府私立病院協会(私病協)との合同懇談会の席上だった。木野昌也・大病協会長、加納繁照・私病協会長はともに中尾先生の無念を口にし、涙した。「中尾先生の遺志は、会務を止めないこと」。加納会長代行の言葉に、懇談会は続いた。どの顔も蒼白で、声は震えていた。中尾先生が大切にした懇談会だった。
 体調の悪化を感じながらも公務に励まれていたが、9月26日に病状が急変した。そこから闘病生活が始まった。府医執行部は、中尾先生の早期復帰を疑わなかったが、便宜上、10月1日の理事会で、加納副会長が会長代行を務めることが承認された。
 中尾先生は、平成16年に府医理事に就任した。当時51歳。故植松治雄会長が日本医師会長選挙に臨むため、故酒井國男執行部が立ち上がった際に起用された。小泉純一郎政権が進める財政至上主義の市場経済原理に基づく医療改革の真っただ中、医療界は厳しい逆風にさらされていた。当時の中尾先生の担当は、介護保険と高齢者対策。以来、地域医療や行政との交渉に尽力した。本紙に理事就任当時の所信と抱負を寄せている。「患者にやさしい医療・介護保険制度の構築に向け、医療保険担当とチームを組み、多くの問題点と課題に対してがんばっていきたい」。そのスタンスは不変であった。また、当時のエピソードを笑顔で振り返られたことがある。「今では行政の担当者も皆偉くなった。当時は自分も若く、当たりがきつかった。なめられてはいけないと必死で勉強したなぁ。それもあって、今は行政との交渉がスムーズになったんよ」――。
 大阪の高齢者や障害者対策が進んだのは、中尾先生の尽力があったことを忘れてはならない。

会長就任までの歩み
人柄に触れる

 中尾先生は愛知県の出身だ。3歳まで過ごした。医師であった父親の仕事の関係で4歳からは高槻市に移り、その後、父親の開業に伴って大阪市東淀川区に移住した。公立の小・中学校を卒業し、金蘭千里高等学校から神戸大学医学部へと進む。高校時代は文学に興味を持ち、当初は文学部志望だったという。万葉集の研究がしたかったそうだ。しかし、父親から医師の魅力を聞き、自身も医学部進学を目指した。
 神戸大学を卒業後は天理よろづ相談所病院、川崎医科大学附属病院での勤務を経て、昭和62年に中尾医院を開設する。父親の跡を継いだ。医師会活動への参画は、小さい頃から父親を見ていた影響もあって、わりとスムーズに受け入れた。平成3年に東淀川区医師会理事に就任。16年4月からは府医理事として、約20年に及ぶ府医での活動が始まった。

14年ぶりの府医会長選
激しい戦いに勝利

 令和5年3月、第324回府医臨時代議員会で、府医の運営について疑義の声が上がった。続く第325回府医定例代議員会でも、組織のあり方が問われた。翌年の第326回臨時代議員会。高井康之会長(当時)と中尾先生の対立構図が公になり、初めての代議員会だった。代議員の発言に加え、理事者からの発言も相次いだ。事務局内に横行するというハラスメントも問題となった。
 中尾先生の人柄を知るこんなエピソードがある。昨年は、例年よりも厳しい猛暑が続いた。8月9日、中尾先生から府医事務局全員に対して事務局ではタブーであるはずの選挙の経緯が語られた。異例のことだ。冒頭、会長を支える立場であった自分が選挙に出るのは「本当に辛かった」と振り返った。自身、新型コロナウイルス感染症が流行したあたりから事務局に違和感を覚えたという。風通しの悪さを肌で感じたとのことだった。代議員会でのやりとりも目にし、5年の年の瀬に事務局と役員との話し合いに臨んだ。大きな問題と認識した中尾先生は、当時の高井会長に進言するも取り合われず、やむなく会長選に出馬することになったと語った。そして、6月28日、中尾先生が会長となって初めて臨む郡市区等医師会長協議会で医師会運営の4つの柱を示し、「その一つが事務局の改革」と伝えた。若手職員に直接エールが送られ、一体感が生まれた。

中尾先生が掲げた4つの柱
現執行部が引き継ぐ

 中尾先生は、新執行部として初めて向き合った郡市区等医師会長協議会で、「地域医療体制の充実」「丁寧な医療DXの提案」「広報部門の強化」「風通しの良い組織運営(事務局改革)」を掲げた。中尾先生が怒涛の勢いで取り組んだ施策、そして中尾先生が描いた未来を会員諸氏と共有したい。

地域医療体制の充実

 中尾先生が府医で活躍された20年間は地域医療とともにあった。近年は医療だけではなく、介護・福祉との連携づくりにも余念がなかった。慢性期医療展、訪問看護シンポジウムにも足を運んだ。直近では小児の在宅医療にも骨を砕いた。日本医師会「小児在宅ケア検討委員会」では、委員長を務め、医療的ケア児が地域で暮らしていくことができる地域共生社会の実現を目指した。
 府医においては、2025年以降の「新たな地域医療構想」の策定を視野に、病院団体とのさらなる連携を訴えた。府医では、年に1回、大病協、私病協との懇談会を実施していた。病診連携をはじめとした地域医療体制を具体的に協議する中身の濃い会議体だ。中尾先生はこれを一層強化したいとの方針を打ち出した。8月、9月、10月に開催することで病院団体と調整がついた。
 初回は8月29日に実施した。「新たな地域医療構想について――2040年頃を見据えた地域完結型の医療・介護提供体制の構築に向けて」をテーマとした。加納・私病協会長からは、想定をはるかに上回る病院経営の厳しさが伝えられた。府医からは「在宅医療に必要な連携を担う拠点・在宅医療において積極的役割を担う医療機関」について細部を説明した。意見交換は活気にあふれ、中尾先生は満足げに笑みを浮かべた。
 第2回は9月26日に行われた。くしくも中尾先生が入院された日だ。中尾先生のあいさつが代読されたが、この日の懇談会を楽しみにしていたことが記されていた。病院経営の改善に向けた具体策や医師偏在対策で議論した。
 3回目の懇談となった10月17日、開催直前に中尾先生の訃報が届いた。誰もが耳を疑った。加納会長代行の声がつまる。中尾先生の「会務を止めないでほしい」との言葉に、粛々と協議は進んだ。地域医療介護総合確保基金の活用、大阪・関西万博における医療救護体制などが話し合われた。
 初回、第2回の懇談の模様は、三会長の名前でまとめた。地域での協議が医療体制構築に重要な意味を持つとの中尾先生の考えに基づき、郡市区医師会長とも共有した上で保健医療協議会等での活用を促す。なお、このまとめは、吉村洋文・大阪府知事にも提出した。
 地域住民の健康を支えることが中尾先生の遺志だ。
 一方で、医師会がどれだけ正論を主張しても、政策に反映されないことも痛感していた。会長就任当初から、政治活動の重要性も頭にあった。まずは、7年7月に行われる参議院議員選挙。大阪が動くことが大きな意味を持つと捉えていた。
 9月19日、大阪府医師政治連盟の医政活動研究会が開かれ、日医から釜萢敏副会長を招いた。病魔は確実に体を蝕んでおり、体力は限界に近かったのかもしれない。気力で釜萢氏にエールを送り続けた。それは、公の場で見る中尾先生の最後の雄姿であった。
 中尾先生が描いた地域医療。それは、地域住民の健康、命を守るために関係者が協力し合う姿。その実現には、政治活動にも力を入れなければならないというメッセージ。すべては地域医療の充実が目的だ。地域ごとの実情を把握し、新たな地域医療構想に臨む姿を示すことが、中尾先生への恩返しだろう。

丁寧な医療DXの提案

 医療DX(デジタルトランスフォーメーション)とは、医療のデジタル化を通じて、医療の質の向上、効率化、患者の利便性を高めることを目的とした取り組みだ。特に、日本では高齢化と医療費の増加が課題となっており、医療DXが注目される。一方で、導入のハードルやセキュリティ面など大きな課題も残す。
 政府は、「より効率的かつ効果的で良質な医療サービスの提供」を目指し、医療DX推進本部を立ち上げ、医療DXに関する工程表を取りまとめた。昨年6月に政府が閣議決定した「経済財政運営と改革の基本方針(骨太の方針)2024」では、「医療DXの推進に関する工程表」に基づく、「全国医療情報プラットフォーム」の構築、電子カルテの導入、電子カルテ情報の標準化、診療報酬改定DX、PHR(パーソナル・ヘルス・レコード)の整備・普及が示された。
 政府の強引ともいえる姿勢に、8月度の郡市区等医師会長協議会で中尾先生は、「医療DXは、医療機関および患者の利便性が高まり、手間や負担が減るものでなければならない」と明言した。そうしたDXを会員とともに考えたいと。医療DXが政府主導で推し進められ、やむなく閉院する医療機関が出れば地域医療が崩壊する。地域の医療体制が崩れてはならないとの視点。いかにも中尾先生らしい。
 全国医療情報プラットフォームによる医療情報の共有が謳われているが、ベンダーによって仕様が異なることがあってはならない――。これも中尾先生がよく口にしていた言葉だ。導入コストに加えてランニングコストも大きな問題であり、特に規模の大きな病院では、経費が莫大になる。日頃から病院団体との連携を大切にしてきた中尾先生ならではの着想といえる。
 医療DXは避けては通れない。ただ、それは一部の者の強引な手法であってはならない。医療機関と患者、双方にメリットがあって進められるべきである。府医が医療DXをリードしていくことは難しいだろう。ただ、患者の視点、会員医療機関の要望を織り交ぜながら、真に有益な医療DXを考えたい。これが中尾先生の提唱する「丁寧な医療DX」であり、それを提案していくことが現実的な解決策なのだろう。中尾先生が急逝して3日後、横浜市で十四大都市医師会連絡協議会が開かれた。分科会では「医療DX」がテーマとなった。各都市の先鋭的な取り組みも報告された。中尾先生は無邪気な顔で、「府医でもできへんかな」。そう言ったに違いない。中尾先生の遺志をつなぎ、「府医の医療DX」を検討することが望まれる。

広報部門の強化

 中尾先生は、広報部門の弱体を懸念していたわけではない。ただ、「会員の努力をどうすれば世間に伝えられるだろうか」ということが念頭にあった。それは新型コロナ流行時にさかのぼる。連日、茂松茂人会長(現日医副会長)がメディアで医療者の見解を訴えた。医師会の存在感は増し、世間に医師をはじめとする医療従事者への感謝が浸透した。
 中尾先生の頭には、医師が尽力しているのは新型コロナだけではないということがあった。日々の診察、学校医や産業医など地域での活動、医師会活動を含め日常の姿を伝えることで医師会の認知度は高まる。それが組織強化にもつながると考えていた。
 会長就任後の7月11日、メディアと「記者懇談会」を実施した。大手新聞社や業界紙など11社の記者と意見を交わした。医師の働き方改革、地域医療、かかりつけ医機能などを取り上げ、マスコミに医師会側からの情報を発信した。日頃から医師側のスタンスも理解してもうらことが重要と捉えていた。終了後も記者からの質問に丁寧に応じた。
 2週間後の7月25日、新型コロナの11波の立ち上がりを警戒し、記者会見を開いた。その模様はニュースでも報道され、新聞各紙でも取り上げられた。しかし、この頃になると否定的な言葉が目立つようになっていた。「また医師会がコロナを煽っている」「医師の金儲けのためか」――。辛辣な言葉がSNS上で並ぶ。中には中尾先生個人に対する侮蔑的な言葉もあった。それでも、「誰かがコロナの危険性を伝えないといけない」と意に介さなかった。「12波の危険性が出れば、またやるよ」。軽く発する言葉の裏に府民の健康を第一に考える中尾先生の思いがこもっている。
 中尾先生が掲げた広報部門の強化。これも府民の健康啓発が大きな目的だ。医師会の存在感を高め、発信に影響力を持たせることが重要なのだろう。そして批判を恐れない勇気を持ち広報展開していくことが本紙の役割だと感じる。また、医師の日常の姿を伝えることで組織強化にもつながることを念頭に置き、府医機関紙としての使命を果たしたい。

風通しの良い組織運営(事務局改革)

 連日のように報道される政治不信や企業・行政のコンプライアンス。発端の多くは密室での意思決定ではないだろうか。中尾先生が会長に就任し、会長室の扉は常に開かれた。理事者が会長室で相談する様子が何度も見られた。事務局も中堅・若手職員が役員に同席したり、あるいは上席と訪れる機会が増えた。ある職員は「今まではあまり見られなかった光景」と振り返る。中尾先生の人柄がプラスされ、風通しの良さが広がりをみせた。
 理事会でも協議の前には中央情勢や課題となっている案件などの情報が共有された。議論も熱を帯びた。それでも最終決定は中尾先生だ。様々な角度からの意見をまとめ、発言者への配慮も行いながら府医の方針へと昇華させる聡明さを兼ね備えていた。
 中尾先生には「事務局機能の強化が会員サービスに直結する」という持論もあった。若手職員が活躍できる風通しの良い職場へと変容することで、業務が円滑に進む。そういった言葉を職員に直接伝えた。まずは、過去のしがらみや縦割りの業務から離れる手法を探り、事務局内に「政策推進ワーキンググループ」を設置した。
 その中の一つのグループは、「職員の採用」を担った。若手職員を中心に自身の経験や世間の状況などを調べ、大学にまで足を運んだ。採用に関する説明会を開き、医師会の仕事や先輩としての矜持を伝えた。今までになかった新しい試みだ。
 新しい試みには勇気と決断が必要だ。やみくもに進むだけでは組織として立ちいかなくなる。
 中尾先生は、先見性、信頼、決断の大切さを残してくれた。

中尾先生の遺志を紡ぐ

 昨年12月19日に開催された第329回府医臨時代議員会で、加納会長代行が第19代府医会長に選任・選定された。本年1月1日から府医会長としての重責を担っていく。
 加納会長は、「中尾先生が掲げた4つの方針に基づき、府医としての使命を果たす」と明言している。中尾先生の果たせなかった遺志は、次の執行部へと移る。会員が安心して診療に従事できることこそが府民の健康につながる――。
 中尾先生が目指した府医を天国から見ていただきたい。