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新春対談

井村雅代・シンクロナイズドスイミング日本代表ヘッドコーチを迎えて

府医ニュース

2018年1月3日 第2843号

敵は己の妥協にあり プレッシャーを「やりがい」に日々邁進

 2年後に迫った東京オリンピック・パラリンピック――前回のリオデジャネイロ大会のシンクロナイズドスイミング(以下、シンクロ)では、井村雅代氏が日本代表ヘッドコーチに復帰し、チームは12年ぶりにメダルを獲得した。開催地・東京でのメダルの期待もますます高まる中、新春特集では「シンクロの母」と呼ばれる井村氏を迎え、茂松茂人・大阪府医師会長と対談。厳しい指導で知られる井村氏の「結果にこだわり、結果を出す」努力の日々に茂松会長が迫った(司会:阪本栄理事)。

2年後を見据え多忙な日々

茂松 明けましておめでとうございます。よろしくお願い申し上げます。私は学生時代、バレーボールの選手でした。運動器疾患に興味を持ったことなどがきっかけで整形外科医となりましたが、スポーツが大好きで、東京オリンピック・パラリンピックの開催を大変楽しみにしています。対談では、シンクロの素晴らしさだけでなく、結果を追求する姿勢、若い世代の育成など、多くのお話をお聞かせいただけるものと楽しみにしております。
阪本 司会を務めます広報担当理事の阪本です。よろしくお願いいたします。2年後の東京五輪に向けてお忙しい毎日かと思いますが、年末年始はどのように過ごされますか。
井村 昨年8月、東京五輪まで日本代表ヘッドコーチを担当することが決まり、3年計画でチーム強化に取り組んでいます。1カ月のうち数日しか帰阪できず、年末年始も都内にあるナショナルトレーニングセンター・国立スポーツ科学センター(JISS)で過ごしますね。年末年始は地元のプールが休館で、帰省すると十分に練習できなくなりますが、センターは無休ですから。そこで出される食事メニューでお正月気分を味わう程度でしょうか。
阪本 まさに「お正月返上」ですね。
井村 国立スポーツ科学センターでは、国際競技力の向上を目指し、様々な競技の選手達が切磋琢磨しており、我々は地下にあるシンクロ用プールを練習拠点にしています。しかし、設備が充実しているがゆえ、外に出る機会も少なくなりがちです。
茂松 シンクロのように表現力が大きく評価される競技では、外の空気に触れて感性を磨くことも大切ですよね。
井村 海外でも指導経験がありますが、トレーニングセンターは緑に囲まれた所にありました。自然や季節の変化などを体で感じながら、練習することも大切です。ご指摘のように、シンクロは「表現する競技」です。ですから、流行に敏感であることも重要ですし、「本物」の素晴らしさを知ってもらうため、文化・芸術鑑賞に選手達を連れて行き、モチベーションを高めるようにしています。自分自身が感動する人間でなければ、他の人々を感動させることはできませんから。
茂松 報道で知って驚いたのですが、シンクロの名称が「アーティスティックスイミング」に変更されると聞きました。
井村 昨夏の国際水泳連盟で決定し、日本でも4月より名称が変更される見通しです。中身は何も変わらないのですが。
茂松 「シンクロ」の名称が浸透していますから、慣れるまではしばらく違和感があるでしょうね。

「ひと振りの脚」で観客を魅了する

阪本 シンクロを始められたきっかけについてお教えください。
井村 私の母は、アイススケートやクラシックバレエなど芸術性のある競技が好きでした。通っていた浜寺水練学校から案内が届き、「シンクロってきれいなのよ」と勧めてくれたのがきっかけで、中学1年から始めました。同校は「日本におけるシンクロ発祥の地」と言われるほど古い歴史があり、シンクロの先輩方は女性的な美しさがある選手でしたね。当時は、昭和39年の東京オリンピックで活躍された体操のチャスラフスカ選手など、優美な演技が非常に注目されました。
茂松 私もチャスラフスカ選手の大ファンでした(笑)。しかし、シンクロをはじめ多くの競技で、現在では美しさに加えて、より高度な技術が求められます。
井村 特にスピード感は大きく変化しましたから、女性的な体型だとやりにくいでしょうね。シンクロでは「脚が話をする」と言いますか、ひと振りの脚で観客に語りかけなければなりません。水中での練習以外にも筋力トレーニング等も大切です。脚の周りを柔軟にしてから筋肉を付けて、関節をマルチに動かせるようにします。足の指で靴下をつかんだ状態で筋トレを行うこともあります。
茂松 シンクロは華麗な競技ですが、非常にハードなスポーツであることがよく分かります。メダルを獲得するにはたゆまぬ修練が不可欠ですね。
井村 私自身も、指導者としてこれまでは1シーズンごとの更新でしたが、今回は東京五輪までの担当が決まっており、長期的に取り組むことができています。また、私自身が直接、選手の発掘に関与できる体制となりました。
阪本 オリンピックに向けて抜本的な改革がなされているのですね。

成功した時こそ、更なる高みを目指す

井村 リオデジャネイロで12年ぶりにメダルを獲得し、多くの方が喜んでくださいました。しかし、メダルを獲得したことで「『成功』イコール『正しい』」と解釈されてしまい、次なる段階に向けて提案を行ったのですが、否決されました。実は、昨年夏の世界選手権で目標とする成績を残すことができなかったため、今回、このような強化策が講じられたのです。世の中は常に進化しています。うまくいかなかった時に改革することは当たり前ですが、成功した時こそ、更なる高みを目指して攻めていくべきです。
茂松 ご本人を前にして言いづらいのですが、井村さんは「厳しい指導者」の代名詞のように取り上げられます。近年、若者の意識も大きく変化しました。昔と比較してはいけないのかもしれませんが、「ゆとり世代」と言いますか、私もジェネレーションギャップを感じることがあります。若い世代を育成する上で気を付けておられることなどをお教えください。
井村 我々の時代とは異なり、甘やかされて育っている面はあるでしょうし、特に「選ぶ力」が欠如していると感じますね。食生活をとってみても注意が必要です。「選ぶ力」を持って、きちんと考えて摂取するように指導しています。

海外でも指導者として活躍

阪本 こうした気質は日本特有のものでしょうか。
井村 中国のナショナルチームを指導していたことがあり、4年半、現地で生活しました。振り返りますと、いい経験をさせてもらったと思っています。国の体制や教育等も大きく異なり、その違いを実感しました。日本では皆の意見を尊重するので、先程も触れましたように、改革することは難しく、なかなか進みません。一方、中国ではトップダウンと言いますか、指導者の決断で物事が早く動きます。また、日本では、大人が子ども達にプレッシャーを与えないようにしますが、中国の選手は「故郷」を背負っています。ですから、厳しい練習にも歯を食いしばって取り組みます。
茂松 ハングリー精神が違うのでしょうか。
井村 大きな国で人口も多いですから、弱音を吐くと故郷に戻らされます。一方、日本では大人がプレッシャーを背負わさないようにしますから、うまくいかないと悲劇の主人公になってしまう。私は、「泣いてうまくなるなら、代わりに泣いてあげる。泣いてもその分疲れるだけやで!」「日本を背負いなさい」と檄を飛ばします。リオでも、予選を3位で通過し、「さあ行くぞ」と気合が入るところですが、ダラダラしてしまいましたね。メダルに近付いたことで逆に怖くなってしまうこと、そして油断です。決勝の前日、喝を入れましたよ。あまり「メダル」と口にすることはしなかったのですが、選手達に「メダルいらなくなったの?」と言ったのは、この時が初めてです。
阪本 イギリスでも指導されたと伺っています。
井村 シンクロは芸術性が評価される競技ですから、当初はアジア人の指導を受けることに対して、選手側にも抵抗があったのでしょう。私にも我慢の時期でした。「認められないのであれば、認められるようになろう、必要とされる人になろう」と努力しました。そうした経験を重ね、「価値を見出される人間になることが大切」と学びました。世界選手権が終わり、空港の荷物のターンテーブルの横でイギリスの選手とコーチが手をつなぎ、私を囲んで「アリガトウゴザイマシタ」と日本語で言ってもらったことがとても印象に残っています。人同士のつながりは偏見を超越するのです。
阪本 指導者として何度オリンピックに行かれましたか。
井村 ロサンゼルス大会から9回参加しています。競技のスケジュールがつけば、選手達にはぜひ開会式に出てもらいたいですね。大勢の観衆の中で入場行進をする度に思いますが、「地球にいる人々はみんな一緒」と言いますか、肌の色、言葉の違いを越えて、平和の素晴らしさを無言で感じ取ることができます。

日本の良さを生かし、選手達を輝かせる

阪本 日本の選手は、海外の選手に比べて体型で見劣りすることは否めません。これはどのようにカバーされておられるのですか。
井村 中国選手の平均身長は約170センチ、一方で日本選手は163~164センチ程度です。また、日本選手の中でも身長差がありますから、体型の印象を薄くしようと、水着を工夫し、軽さと発色にこだわりました。リオは屋外で行われましたが、強い日差しに映える発色の良いものを追求し、染色は「手捺染(てなっせん)」という手法をお願いしました。デメリットを「仕方がない」とあきらめるのではなく、日本ならではの技術や創意工夫でカバーするのです。こうした努力を積み重ねることができるのが我々の強みです。
阪本 2年後の東京は、8月に行われるため酷暑での開催ですが、暑さ対策は大丈夫でしょうか。
井村 東京の競技は室内プールで行われます。リオの時は大変でしたが、東京では水温や空調もコントロールされます。しかし、シンクロは太陽の下で行うと選手達が輝き、一層きれいに映えます。
阪本 室内と屋外では戦い方が異なりますか。
井村 室内では室内の戦い方がありますね。風の影響もありませんし、衣装の作り方も異なります。リオでは、選手が出場する時間帯の風速データなども送ってもらいながら対応ました。ただし、送り出す時は、選手にはポイントだけを伝えて多くを語らないようにしました。戦う時は、選手達はきちんと言うことを聞いてくれますから(笑)。

トップを更に引き上げることが指導者の醍醐味

阪本 指導する上で心掛けていることはありますか。
井村 団体競技では、トップレベルの選手に合わせるよう指導します。全体が上達したことを体感させるとともに、トップの選手を更に引き上げることが私の役割です。トップの選手には見本がありませんから、その選手のレベルアップはとても重要です。私はレベルの高い選手にはより厳しく接します。そのことは、結果的に私自身へのプレッシャーとなりますが、やりがいはあります。人は「伸びたい」と思っていますから、強くなるのであればしんどいことにも果敢に取り組みます。
茂松 「結果を出す」ため、選手とともに戦っておられる姿が想像できます。
井村 結果を出さなければ私のコーチ哲学が成立しません。このためにとことん追い込みます。私の座右の銘は「敵は己の妥協にあり」です。選手達を引き上げるため、自分自身と戦っているのです。また、指導者として要請されているうちが「花」です。プレッシャーをやりがいにして、「できればこのようにしたい」ではなく、強い思いを持って、目標を「決めて」走り抜きます。また、「最近の若者には粘りがない」と嘆く方もいらっしゃいますが、世界に比べたら日本人はまだまだ粘り強いですよ。指導者がいかに導くかが大切なのです。
茂松 そうですね。競技を見ていつも感心するのですが、選手全員が同じ動きをピタッと揃えることは、本当に大変ですよね。バレーボールでは、守備や攻撃といった役割が決まっており、各自がスキルアップを図りつつ、チームで練習します。一方、シンクロでは動きを揃える必要があり、練習も難しいだろうと想像します。
井村 おっしゃるとおりです。また、「リフト」などの役割分担もありますし、デュエットに出場する選手には、先陣を切って好成績を収めさせ、後に続く選手に引き継いでもらわなければならない。「合わせる」ことは非常に難しいですね。だからこそ、ピタッと合った時の醍醐味があり、皆様にもそれを感じていただいているのです。「どのようにして合わせるのですか」とよく問われますが、全員の動きが合うまで練習するのみです。しかし、最近の選手達は足を引っ張る選手がいてもあまり文句を言いませんね。すぐに許しますし。理由を尋ねたら、「自分がその立場になることもあるから」だそうです。「自ら口にすることによって、『そうしてはいけない』と思うでしょ」――そこまで指導することもあります。
茂松 「言った以上はやらなければ」と感じ、お互いが高められていくと思うのですが。
井村 我々の世代とは異なり、残念ながらそのようにはなりません。選手からは、「そのようなことを言う資格もない」と返されます。昔はシンクロの練習環境も限られていましたので、長時間、プールを使うことも難しかったのですが、平和で豊かになって甘さが生まれてきたのかもしれませんね。一方で、「頑張っているのに…」という意識は強いので、私は、「頑張って当たり前。生きることは頑張ることや」と発破をかけます。説教じみた話になりましたが、このような若者が増えたのは大人達の責任でもありますからね。

健康管理のコツは「体と語り合う」こと

茂松 選手達の健康管理についてはどのようにアドバイスされていますか。
井村 3年前の世界選手権では、代表選手2名が辞退しました。補欠選手がいない状態となったため、10名で出場する種目にチーム全員がエントリーしたことがあります。控えの選手がおらず、当然、代わりがいません。試合直前には、特に「人や物とぶつからないように」「慌てて階段を上り下りしない」など、細かく注意しました。また、普段から選手達には「体と語り合いなさい」と伝えています。自分自身が体調の変化に早い段階で気付くよう、きちんと意識してほしいという思いからです。一方で、メディカルスタッフやトレーナーなどのスタッフの数の充実や常駐など、運営面での強化が望まれます。

最後に

茂松 お話を伺う中で、最近の若者気質に共感しました。研修医を見ても、ルール通りにはこなすのですが、「学びとろう」という強い姿勢があまりみられないですね。人の命と健康を預かる大切な仕事なのに、そうした意識が感じられにくい。医師の大きな役目は、患者さんの人生にしっかりと寄り添うことなのです。
井村 率直な言い方をしますと、医師は「学校で勉強がよくできた人達の集まり」ですよね。親にとっても自慢の子どもですし、「いい子」として育っているでしょう。しかし、「命」の数だけ接し方があります。先生方も私も、人に触れる仕事ですが、これは応用問題――価値観は千差万別ですから、公式に当てはめたり、画一的に対応したりして答えを引き出すことは無理ですよね。先生方には、「人生に寄り添う」という思いを大切にしていただきたい。
茂松 選手が試合直前にけがをした場合、けがの程度などをしっかりと見極めた上で、可能であれば出場を促しますね。治るまで休養すると筋力が低下しますし、本人の気持ちもありますから。一方で、やはり治療を優先せざるを得ない場合もありますので、この辺りは医師が寄り添い、サポートしなければなりません。
井村 私の立場からお願いしたいことがあります。まず、ひとつの故障が選手人生、その後の人生にも大きな影響を及ぼすことを分かってほしいですね。捻挫が完治していなければバランスの能力が低下することがあります。選手に限った話ではありませんが、けがや病気を診るだけでなく、患者さんの将来も考えて接していただきたいです。また、大きな病院で診療科に多くの医師がおられるところでは、担当医が誰なのか分からないこともあります。やはり我々にとって、「お医者さんの声は『神の声』」なのです。私がカミナリを落としてもなかなか言うことを聞きませんが、選手達は医師のアドバイスにはきちんと従いますから。これからも患者さんの気持ちを受け止め、我々のために頑張っていただきたいと思います。
茂松・阪本 その意識を忘れず、しっかりと医療に取り組みます。「マーメイドジャパン」の一層のご活躍を期待しております。本日はありがとうございました。

井村雅代(いむらまさよ)

 昭和25年、大阪府生まれ。中学1年でシンクロナイズドスイミングを始め、日本選手権のチーム競技で2度優勝。53年に日本代表コーチに就任し、60年には「井村シンクロクラブ」を設立した。ロサンゼルス五輪以降、6大会連続で日本にメダルをもたらす。その後、中国・イギリスでの指導を経て、平成27年に日本代表ヘッドコーチに復帰し、リオデジャネイロ五輪では12年ぶりにメダルを獲得。また、中学校教諭の経験を生かし、大阪府教育委員等を歴任した。

茂松茂人(しげまつしげと)

 昭和27年生まれ。53年大阪医大卒。同大整形外科助手、阪本蒼生会蒼生病院整形外科部長を経て、平成2年に茨木市に茂松整形外科を開設。13年8月~20年3月まで大阪府医師会理事、22年4月~28年6月まで府医副会長を務め、28年6月23日に府医会長に就任。27年春に藍綬褒章を受章。趣味はドライブ、スキー、スポーツ観戦。